小松則幸が亡くなりました。
追悼文などという、立派なものを書けはしませんが、
毎度の通りとりとめもなく、彼への思いを書きたいと思います。
私が最も足繁く会場に足を運んで観戦出来た頃が、彼の上昇期と重なったこともあり、
彼の試合は何度も直に見て、応援したものです。
初めて彼の存在を知ったのは、馬場紀幸、的場賢一、故・田中聖二らとの試合の頃です。
確か的場戦は、よみうりTVのドラマティックボクシングでハイライトが流れたと思います。
その頃は、特に印象はなく、まあ普通の若手ボクサーかな、くらいの記憶しかありません。
刮目したのはライトフライ級で日本1位になった頃からでしょうか。
積極的な攻撃にパンチの切れ味が加わって、試合ごとに鮮やかな攻め口を見せてくれるようになりました。
そして02年2月のタイ王者ヴィセー・ソーウォラポン戦以降数年間、
彼の試合をほぼ全て、観戦することとなりました。
元日本1位、村松竜二を鮮やかな右ストレートで2回KO。
強打の孫正五を速い足と連打でアウトボックスしてOPBF王座獲得。
当時無敗のロリー・ルナス(松下)を2回にカウンターで倒し初防衛。
判定が論議を呼んだ、異形の天才トラッシュ中沼との初戦。
Z・ゴーレスを破ったエドガー・ロドリゴとの激闘、一進一退の熱戦だった小嶋武幸戦。
そして場所を横浜に移して、中沼との決着を期したリターンマッチでの惜敗。
この中沼との初戦と二戦目の間が、実は私が一番熱く、小松ファンであった時期かもしれません。
中沼との初戦のあと、多くのファンが小松に浴びせた批判は、非常に苛烈で、濃密なものでした。
私も小松を応援するコメントを某所で頻繁に書いたこともあり、ちょっとした騒ぎに巻き込まれたものでした。
小松も中沼も、リングの上で勝利を、その先にある未来を、栄光を掴もうとして必死に戦ったに過ぎない。
にもかかわらず、その勝敗の判定について、成すべきことを成さずにいる周囲の人間に対する批判が、
いともたやすく、小松個人への誹謗中傷とないまぜになってしまう現実に、すっかり頭に来て、
誰が何と言おうと、自分だけは小松の応援をするんだ、という心境だった記憶があります。
しかし翌年、横浜での熱戦(TV放送がなかったのが今でも惜しまれますが)以降、
小松は少なくとも、会場で直にその闘いを見た人たちの評価を一変させました。
敵地で決着をつけようとする姿勢、そしてその果敢な闘いぶりが認められたことは、
小松ファンである私にとり、勝敗を越えた、この上ない喜びでした。
その後、ポンサクレック戦で完敗を喫し、フェデリコ・カツバイに勝って、あの内藤大助戦。
今から思えば事実上の世界再挑戦みたいなものだったわけですが、当時、両者の立場は対等でした。
そして勝者となった内藤は後に、世界王座を奪取し、栄光の道を走ります。
敗れた小松は、再浮上を期してジムを移籍し、苦闘を繰り返すこととなりました。
そして、限界を感じさせられることもあったいくつかの試合の後、今回の悲報に接しました。
小松は、中沼、内藤をはじめ、強敵との闘いを自ら望み、その意志を、
取り消すことの出来ないリングの上で表明し、
時にはビジネス面での支障をも乗り越えて、それを実現させることまであったと聞きます。
強い相手と闘いたい。強い相手に勝って、小松は強いんや、ということを証明したい。
そんな彼の純粋な意志に、その意志に裏打ちされた魅力溢れる試合ぶりに、その佇まいに、
多くの人々が魅了され、熱い思いで声援を送ってきました。
私は、以前の記事において、次に予定されている試合について、否定的な意見を述べました。
その考え自体は、別に間違ってもおらず、訂正するつもりもありません。
しかし、矛盾するようですが、こんなことになった今、闘うことで己の未来を切り拓こうとする
小松則幸の変わらぬ意志を、闘える試合がある限りは実現させてあげたかった、という思いもあります。
それが小松則幸の生き様そのものだったのですから。
彼は誰よりも巧く、強く、優れたボクサーではありませんでした。
でも、私は小松則幸のファンです。それを今、改めて表明したいと思います。
エネルギッシュで、タフで、明るくて、ハンサムで、でもどこか不器用で、真正直なファイター。
君の試合を見ることは、本当に楽しいことでした。たくさんの熱い試合をありがとう。
あまりに早過ぎるお別れだけど、せめて今は、安らかに。
小松則幸選手のご冥福をお祈りします。